「仙境異聞2/n」現代語訳
2023/03/20 21:00
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平田篤胤翁の「仙境異聞」を現代語に訳して読んでいます。
寅吉に会った篤胤さん、早速神誘いにあったことを寅吉に聞きます。
占いに興味を持った寅吉は、老人の誘うままに壺に足を踏み入れて…。
注意!
わからないところは略したり、意訳したり、耳で聞くだけの人にわかりやすくするため、加えている言葉もあります。
解釈違いとかあると思います。なまあたたかい目で見てください。
仙境異聞 その1 ②
さて、私はまず、“神誘い”にあったきっかけを尋ねた。
文化九年、1812年、寅吉7歳のとき、
池ノ端茅町(いけのはたかやちょう)の
「境稲荷神社」の前に貞意(さだおき)という
占い師(売ト者:ばいぼくしゃ)がいた。
寅吉は、彼が家の前に来て、
日々占いをするのに近寄り、
「乾(けん)の卦、出たり」
「坤(こん)の卦、出たり」
などというのを見聞きしていた。
占いの中には、いろんな動物の毛を集めて、
熊の毛を探り出したらこう、
鹿の毛を探り出したらこう、
というものもあった。
寅吉は「習ってみたい」とすごく思い、
ある日、占い師のそばに人がいない時を見計らい、
「占いの仕方を教えてください」
とお願いした。
*******
占い師は僕をほんの小さな子だと思ったのでしょう。
「ばかなことをいうのではない。
これは簡単に教えられない技だから、
7日ほど、手の中に油をいっぱいいれて灯をともす、
”手明かりの行”をしてから、また来なさい。
そうしたら教えてあげよう」
と言いました。
「なるほど、簡単には教えてもらえないのだな」と思い、
家に帰り、両親も誰にも見られない時に、
身をかくして2階に上がり、
密かに”手明かりの行”を始めました。
熱くて苦しかったけれど、がんばって7日間続け、
占い師のところへ行き、
僕は焼けただれた手を見せて、
「7日間、手明かりの行をしましたよ。
占いを教えてください」
と言いました。
しかし占い師は、ただ笑って教えてくれません。
くやしいと思いましたが、仕方なく、
ますます占いの技が知りたくなりながら
日々を過ごしていたのです。
*******
この貞意という占い師は、その後、
上方筋、関西の方へ行ってしまったという。
寅吉は、その年の4月ごろ、
東叡山寛永寺に行き、
黒門前にある五條天神のあたりを見物していると、
年の頃は50歳ぐらいに見える、
髭が長く、髪を後ろで引き結び、
櫛巻きのように結った旅装束の老人が、
口の大きさが12センチくらいの壷から、
丸薬を取り出して売っていた。
美成が寅吉のことを書いた『平児代答』には
16センチとあるけれど、
後に寅吉は12センチぐらいだと言っている。
老人が壷から取り出して並べるものは、
小さいつづらや敷物まですべて、
その壷にまた入れていくと、
なんなく収まってしまった。
そして老人もその中に入ろうするので、
それはさすがに入らないだろうと見ていると、
老人が壷に片足を入れたかと思うと、
すべて壷に入ってしまい、
壷は大空に飛びあがると、
どこに行ったかもわからなった。
寅吉はすごく不思議に思い、
そのあともまた、そこへ行き、
夕暮れまでみると、前と同じだった。
その後も何度も行って見ていると、
老人が声をかけてきた。
「お前もこの壷に入りなさい。
面白いものを見せてあげよう」と。
寅吉は気味悪く思って、断ったのだが、
老人は傍らの菓子売りから菓子などを買って、
寅吉に与え、
「お前は占いのことを知りたく思っているのだろう。
それを知りたければ、この壷に入り、
ワシと一緒に行くべきだ。教えてあげるよ」と言う。
寅吉はいつも占いの技を知りたいと思っていたので、
行って見ようか、という心持になった。
壷に足を入れたと思ったら、
日もまだ暮れていないのに、とある山の山頂にいた。
その山は常陸の国(茨城県)の難台岳(難台山)だった。
この山は加波山と吾国山との間にあり、
獅子が鼻岩という岩がある山で、
天狗の修行場だという。
しかし幼子のこと、夜になると、
両親が恋しくなり、寅吉は泣き始めた。
老人はいろいろ慰めたのだが、
寅吉が声をあげて泣くので、なぐさめかねて、
「家に帰してやろう。
このことは絶対人に言ってはいけないよ。
毎日、五條天神にきなさい。
ワシが送り迎えして、占いを教えることにしよう」
そういい含めて、老人は寅吉を背負うと、
目を閉じさせて大空へ昇り始めた。
********
耳に風が当たって、ざわざわと鳴ったかと思うと
僕の家の前に居ました。
ここでも老人は繰り返し、
「このことは人に言ってはいけないよ。
話せば君のためにならない」
こう僕に言い聞かせて、見えなくなりました。
僕はこの言葉を堅く守って、
あとあとまで両親にも、このことを言いませんでした。
そして約束のように、
次の日の昼過ぎには五條天神の前に行くと、
老人が来ていて、僕を背負って山に行きました。
何かを教えることはなく、あちらこちらの山へ行き、
いろいろなことを見てまわりました。
花をつんで、鳥をとり、川の魚などもとり、
僕を楽しませては、日暮れになると、
いつものように、背負って家に帰してくれました。
僕はその山遊びが面白くて、毎日約束のところへ行き、
老人と一緒に行くようになりました。
しかし、家にはいつも、
「広小路の井口という薬屋の子と一緒に遊ぶ」
ということにして、出かけていました。
ある時の事、七軒町のあたりを、
「わいわい天王」という鼻が高い赤い面をかぶって、
袴を着て、腰に太刀をさした者が、
赤い紙に「天王」という2文字を印刷した
小さいお札をまき散らして、
子どもたちを集めていました。
「天王さまは、はやすがお好き、
はやせや子ども、わいわいとはやせ。
天王さまは、ケンカがきらい
ケンカをするな、なかよく遊べ」
そうはやしながら行くのを、僕も面白いと思って、
大勢の子どもにまじって、一緒にはやしました。
家からずいぶんと離れたことも知らず、
いま思うと、本郷(文京区本郷)の先の、
妙義坂(豊島区駒込3-23)まで行っていました。
日はすでに暮れ、子どもたちはみんな帰って行きました。
お札を撒いていた人が、道ばたに寄って、お面を取ったのを見たら、
それはいつも僕を連れていく老人でした。
老人は僕を送ろうと、家に向かって連れだって歩きました。
茅町(かやまち)の、榊原様の屋敷の表門の前で、
父が僕を探しに出たことを知りました。
なぜなら、父が僕を探して歩いてきたからです。
老人は僕には「このことは絶対に言うんじゃないよ」と言いふくめ、
父には、「この子を探しているのではありませんか?
遠くで迷子になっていたので、連れてきたのですよ」
と父に僕をひき渡しました。
父はとても喜んで、
老人に名前と住まいを尋ねました。
老人はどこのだれか、
てきとうなことを言って去って行きました。
翌日、その場所に父は尋ねて行きましたが、
それはもともと嘘なので、そこにそんな人はおらず、
無駄足を踏んだのでした。
*********
すべての寺社のお札配り、
わいわい天王などと言うもの中には、
山々の異人がたまにまぎれるという。
このときのことを寅吉の母親に聞いた。
その日、
寅吉は昼前から午後8時ぐらいまで帰ってこなかったらしい。
寅吉を連れてきた人は、
神田紺屋町(かんだこんやちょう)の彦三郎と答えた。
翌日父親の与惣次郎は、酒を持って紺屋町に行った。
しかし、そんな人はいなかった。
残念に思い、同じ町の酒屋に知り合いに頼んで、
その辺を尋ね歩いたが、そんな人物はいなかったのだ。
つづく
【参考】
「仙境異聞 勝五郎再生記聞」 平田篤胤著 子安宣邦校注 岩波文庫
(13頁ー16頁)
そのほか国語辞典とか古語辞典とかいろいろ
池之端七軒町あたりは児童公園で電車がある。
「手灯りの行」が謎の修行。
手のひらに油って…子どもの手だし、そんなに入らないし、
隠れて行っても、油の減りとか、手の火傷で、
家族に気づかれると思うのだけど…。
寅吉くん…。占い師はドン引きでひきつり笑いしてたんじゃない?
寛永寺は現在の国立博物館前の噴水あたりだったそう。
現在は鶯谷駅の方にあります。
ヨドバシカメラの横に跡地の石碑。
関東大震災で移転。現在は不忍池の近く。
岩間駅を降りて、愛宕山→難台山→吾国山→福原駅
というルートで登っている人がいるので、行ってみたーい。
獅子が鼻岩見たーい。
老人と寅吉くんが
ドラゴンボールのちっちゃい頃の悟飯ちゃんと
彼をさらって育てるピッコロさんに見えてくる…。
老人は家に帰してくれるけど。
わいわい天王を追いかけて、
上野から本郷(後楽園)通って駒込…。
小学校低学年の寅吉くんの脚力、すごすぎる。
アリバイに使われる広小路の井口くんはどんな子だったのでしょう。
老人と遊びに行ってばかりで、寅吉くんに同年代の友人がいたのか謎。
(変なところが気になるのが、私の悪い癖)
神田駅付近。行きそびれました。いつか追加するかも。
寅吉に会った篤胤さん、早速神誘いにあったことを寅吉に聞きます。
占いに興味を持った寅吉は、老人の誘うままに壺に足を踏み入れて…。
注意!
わからないところは略したり、意訳したり、耳で聞くだけの人にわかりやすくするため、加えている言葉もあります。
解釈違いとかあると思います。なまあたたかい目で見てください。
朗読動画
仙境異聞 その1 ②
寅吉、神誘いにあう
寅吉は占いを習いたい
さて、私はまず、“神誘い”にあったきっかけを尋ねた。
文化九年、1812年、寅吉7歳のとき、
池ノ端茅町(いけのはたかやちょう)の
「境稲荷神社」の前に貞意(さだおき)という
占い師(売ト者:ばいぼくしゃ)がいた。
寅吉は、彼が家の前に来て、
日々占いをするのに近寄り、
「乾(けん)の卦、出たり」
「坤(こん)の卦、出たり」
などというのを見聞きしていた。
占いの中には、いろんな動物の毛を集めて、
熊の毛を探り出したらこう、
鹿の毛を探り出したらこう、
というものもあった。
寅吉は「習ってみたい」とすごく思い、
ある日、占い師のそばに人がいない時を見計らい、
「占いの仕方を教えてください」
とお願いした。
*******
占い師は僕をほんの小さな子だと思ったのでしょう。
「ばかなことをいうのではない。
これは簡単に教えられない技だから、
7日ほど、手の中に油をいっぱいいれて灯をともす、
”手明かりの行”をしてから、また来なさい。
そうしたら教えてあげよう」
と言いました。
「なるほど、簡単には教えてもらえないのだな」と思い、
家に帰り、両親も誰にも見られない時に、
身をかくして2階に上がり、
密かに”手明かりの行”を始めました。
熱くて苦しかったけれど、がんばって7日間続け、
占い師のところへ行き、
僕は焼けただれた手を見せて、
「7日間、手明かりの行をしましたよ。
占いを教えてください」
と言いました。
しかし占い師は、ただ笑って教えてくれません。
くやしいと思いましたが、仕方なく、
ますます占いの技が知りたくなりながら
日々を過ごしていたのです。
*******
この貞意という占い師は、その後、
上方筋、関西の方へ行ってしまったという。
寅吉、壺に入る
寅吉は、その年の4月ごろ、
東叡山寛永寺に行き、
黒門前にある五條天神のあたりを見物していると、
年の頃は50歳ぐらいに見える、
髭が長く、髪を後ろで引き結び、
櫛巻きのように結った旅装束の老人が、
口の大きさが12センチくらいの壷から、
丸薬を取り出して売っていた。
美成が寅吉のことを書いた『平児代答』には
16センチとあるけれど、
後に寅吉は12センチぐらいだと言っている。
老人が壷から取り出して並べるものは、
小さいつづらや敷物まですべて、
その壷にまた入れていくと、
なんなく収まってしまった。
そして老人もその中に入ろうするので、
それはさすがに入らないだろうと見ていると、
老人が壷に片足を入れたかと思うと、
すべて壷に入ってしまい、
壷は大空に飛びあがると、
どこに行ったかもわからなった。
寅吉はすごく不思議に思い、
そのあともまた、そこへ行き、
夕暮れまでみると、前と同じだった。
その後も何度も行って見ていると、
老人が声をかけてきた。
「お前もこの壷に入りなさい。
面白いものを見せてあげよう」と。
寅吉は気味悪く思って、断ったのだが、
老人は傍らの菓子売りから菓子などを買って、
寅吉に与え、
「お前は占いのことを知りたく思っているのだろう。
それを知りたければ、この壷に入り、
ワシと一緒に行くべきだ。教えてあげるよ」と言う。
寅吉はいつも占いの技を知りたいと思っていたので、
行って見ようか、という心持になった。
壷に足を入れたと思ったら、
日もまだ暮れていないのに、とある山の山頂にいた。
その山は常陸の国(茨城県)の難台岳(難台山)だった。
この山は加波山と吾国山との間にあり、
獅子が鼻岩という岩がある山で、
天狗の修行場だという。
しかし幼子のこと、夜になると、
両親が恋しくなり、寅吉は泣き始めた。
老人はいろいろ慰めたのだが、
寅吉が声をあげて泣くので、なぐさめかねて、
「家に帰してやろう。
このことは絶対人に言ってはいけないよ。
毎日、五條天神にきなさい。
ワシが送り迎えして、占いを教えることにしよう」
そういい含めて、老人は寅吉を背負うと、
目を閉じさせて大空へ昇り始めた。
********
耳に風が当たって、ざわざわと鳴ったかと思うと
僕の家の前に居ました。
ここでも老人は繰り返し、
「このことは人に言ってはいけないよ。
話せば君のためにならない」
こう僕に言い聞かせて、見えなくなりました。
僕はこの言葉を堅く守って、
あとあとまで両親にも、このことを言いませんでした。
そして約束のように、
次の日の昼過ぎには五條天神の前に行くと、
老人が来ていて、僕を背負って山に行きました。
何かを教えることはなく、あちらこちらの山へ行き、
いろいろなことを見てまわりました。
花をつんで、鳥をとり、川の魚などもとり、
僕を楽しませては、日暮れになると、
いつものように、背負って家に帰してくれました。
僕はその山遊びが面白くて、毎日約束のところへ行き、
老人と一緒に行くようになりました。
しかし、家にはいつも、
「広小路の井口という薬屋の子と一緒に遊ぶ」
ということにして、出かけていました。
わいわい天王
ある時の事、七軒町のあたりを、
「わいわい天王」という鼻が高い赤い面をかぶって、
袴を着て、腰に太刀をさした者が、
赤い紙に「天王」という2文字を印刷した
小さいお札をまき散らして、
子どもたちを集めていました。
「天王さまは、はやすがお好き、
はやせや子ども、わいわいとはやせ。
天王さまは、ケンカがきらい
ケンカをするな、なかよく遊べ」
そうはやしながら行くのを、僕も面白いと思って、
大勢の子どもにまじって、一緒にはやしました。
家からずいぶんと離れたことも知らず、
いま思うと、本郷(文京区本郷)の先の、
妙義坂(豊島区駒込3-23)まで行っていました。
日はすでに暮れ、子どもたちはみんな帰って行きました。
お札を撒いていた人が、道ばたに寄って、お面を取ったのを見たら、
それはいつも僕を連れていく老人でした。
老人は僕を送ろうと、家に向かって連れだって歩きました。
茅町(かやまち)の、榊原様の屋敷の表門の前で、
父が僕を探しに出たことを知りました。
なぜなら、父が僕を探して歩いてきたからです。
老人は僕には「このことは絶対に言うんじゃないよ」と言いふくめ、
父には、「この子を探しているのではありませんか?
遠くで迷子になっていたので、連れてきたのですよ」
と父に僕をひき渡しました。
父はとても喜んで、
老人に名前と住まいを尋ねました。
老人はどこのだれか、
てきとうなことを言って去って行きました。
翌日、その場所に父は尋ねて行きましたが、
それはもともと嘘なので、そこにそんな人はおらず、
無駄足を踏んだのでした。
*********
すべての寺社のお札配り、
わいわい天王などと言うもの中には、
山々の異人がたまにまぎれるという。
このときのことを寅吉の母親に聞いた。
その日、
寅吉は昼前から午後8時ぐらいまで帰ってこなかったらしい。
寅吉を連れてきた人は、
神田紺屋町(かんだこんやちょう)の彦三郎と答えた。
翌日父親の与惣次郎は、酒を持って紺屋町に行った。
しかし、そんな人はいなかった。
残念に思い、同じ町の酒屋に知り合いに頼んで、
その辺を尋ね歩いたが、そんな人物はいなかったのだ。
つづく
【参考】
「仙境異聞 勝五郎再生記聞」 平田篤胤著 子安宣邦校注 岩波文庫
(13頁ー16頁)
そのほか国語辞典とか古語辞典とかいろいろ
現在のその場所に行ってみる
寅吉の家、下谷七軒町
場所はよくわからないけど、池之端七軒町あたりは児童公園で電車がある。
境稲荷神社
このあたりの占い師。「手灯りの行」が謎の修行。
手のひらに油って…子どもの手だし、そんなに入らないし、
隠れて行っても、油の減りとか、手の火傷で、
家族に気づかれると思うのだけど…。
寅吉くん…。占い師はドン引きでひきつり笑いしてたんじゃない?
東叡山
このときの東叡山は、現在の上野公園全体。寛永寺は現在の国立博物館前の噴水あたりだったそう。
現在は鶯谷駅の方にあります。
五條天神
寅吉が通った五條天神は、現在のアメ横入口付近にありました。ヨドバシカメラの横に跡地の石碑。
関東大震災で移転。現在は不忍池の近く。
難台岳(難台山)
茨城県。いつか行けるかな?岩間駅を降りて、愛宕山→難台山→吾国山→福原駅
というルートで登っている人がいるので、行ってみたーい。
獅子が鼻岩見たーい。
老人と寅吉くんが
ドラゴンボールのちっちゃい頃の悟飯ちゃんと
彼をさらって育てるピッコロさんに見えてくる…。
老人は家に帰してくれるけど。
妙義坂
最寄り駅は駒込。わいわい天王を追いかけて、
上野から本郷(後楽園)通って駒込…。
小学校低学年の寅吉くんの脚力、すごすぎる。
アリバイに使われる広小路の井口くんはどんな子だったのでしょう。
老人と遊びに行ってばかりで、寅吉くんに同年代の友人がいたのか謎。
(変なところが気になるのが、私の悪い癖)
茅町の榊原さまのお屋敷
現在の岩崎邸あたりでしょうか。神田紺屋町
神田駅付近。行きそびれました。いつか追加するかも。
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